南場智子さんから若者への言葉 ―「自分が夢中になれることを深める経験が大切」
本ページに掲載している内容は、2026年3月27日時点の情報です。
東京都は、令和7年度、新たな価値や課題解決を創造し、日本や世界の成長・発展を牽引していく人材を輩出することを目的に、第一線で活躍するグローバルリーダーへのインタビューを中心とした調査を実施しました。 本記事では、調査報告書の中から南場智子さんへのインタビュー内容をご紹介します。
株式会社ディー・エヌ・エー 創業者 代表取締役会長 南場 智子
インターネットやAIを活用し、エンターテインメントから社会課題解決まで幅広い事業を展開する株式会社ディー・エヌ・エーを創業。近年では、女性初の経団連副会長として日本経済界をリードする一方、起業家や次世代人材の育成・支援にも注力。
津田塾大学学芸学部英文学科入学
マッキンゼー日本支社入社
「父が絶対」の家庭で育ち、
先生の言うことは聞かず、負けず嫌いの子供時代。
― どのような子供でしたか?
学級委員長や生徒会活動に積極的に取り組むなど、前に立って物事を進めることが多いタイプでした。遊びのルールを決める役割も自然と担っており、今振り返ると、周囲からは嫌な奴に映っていたかもしれません。
小学校時代は、教師の指示に従わないことも多く、授業が退屈だと感じると席を立って帰ってしまうこともありました。彫刻刀で机を掘り、その穴に消しゴムのかすを詰めて先生に投げるなど、無礼な振る舞いもあったと自覚しています。
授業にはあまり関心を持たず、教科書も机の中にしまい込んでいましたが、負けず嫌いな性格ゆえに、試験前には一夜漬けで集中して勉強していました。成績面では「敵わない相手がいる」と感じることは少なかったものの、試験が終わるとすぐに内容を忘れてしまうような学習スタイルでした。
― どのような家庭で育ちましたか?
家庭では「父が絶対」という秩序のもとで生活しており、父の存在は非常に大きなものでした。高校入学後、水泳部に所属して活動に力を注いでいましたが、ある日「今日は帰りが遅くなる」と伝えた際、「何時に帰るのか」と問われ、正直に「分からない」と答えたところ、「時間も答えられないような部活なら辞めなさい」と言われ、退部を余儀なくされました。水泳部を辞めたことは、今でも辛い記憶として残っています。
また、家では門限が18時と厳しく定められており、父が不在のときでもそのルールは守っていました。高校の学園祭では泊まり込みの準備が必要な場面もありましたが、私は17時半に一度帰宅し、父が寝静まった後にこっそり学校へ戻ったこともあります。門限を破ったのは数えるほどですが、そのときの緊張感は今でも鮮明に覚えています。
このように、家庭内では父の規律が絶対であり、そのルールに従って日々が営まれていました。
厳しい家庭の中で、
「自由に生きたい」という気持ちを積み重ねていった。
― 父の影響が強いご家庭の中で、地元を離れて東京の大学に進学された経緯を教えてください。
父からは「地元の大学に進学するように」と言われていました。しかし、これまでのような生活がさらに4年間続くことを想像すると、「絶対に嫌だ」と強く思い、私は初めて父に正面から向き合いました。忘れもしない高校3年生のお盆の日、私はボストンバッグに荷物を詰め、「家出します」と父に告げて家を出ようとしました。すると父は、私の前に立ちはだかりました。私は全力で体当たりしましたが、父に跳ね返され、結果として悲惨な状況になってしまいました。
それ以来、私は父とほとんど会話をしなくなりました。父から指示があれば従いましたが、返事すらしない、そんな状況が続いていました。時には、担任の先生が自宅まで足を運び、東京の大学への進学を認めてほしいと父に説得してくれたこともありました。しかし、その訴えは叶わず、先生でさえ父の前では肩身が狭そうに見えました。父との冷え切った関係が変わったのは、父がシャム猫の子猫を買ってきてくれた時です。その瞬間、私は喜んで態度を改めました。こうして長く続いた沈黙は、思いがけないきっかけで終わりを迎えたのです。
しかし、問題は依然として解決されず、私は諦めかけていました。そんな時、これまで一度も父に意見したことのなかった母が、「女子大ならどうでしょうか」と父に提案してくれたのです。母は、私が不自由な思いをしていることを察し、何か月もかけて慎重に父へ話を進めてくれていました。その結果、私は地元を離れ、大学へ進学することができました。そのときの気持ちは、「本当に幸せ」という言葉に尽きます。
今振り返ると、私も父と同じで、とても我の強いDNAを持っていたと思います。厳しい家庭の中で、自由に生きたいという気持ちを積み重ねていきました。社会人になってからは、それが一気に溢れ出したのだと思います。
自由闊達なアメリカの大学の雰囲気に触れ、
日本の大学との違いを肌で実感。
― 東京の大学に進学して感じたことを教えてください。
東京の女子大に進学してまず驚いたのは、私のように親の言いなりの人が一人もおらず、自分の意志で進路を決めている女性が多かったことです。そして、アメリカに姉妹校があり、全学でひとりだけ奨学金で留学できる制度があることを知りました。「もっと遠くに行ける」、「自由になれる」という思いがあり、奨学金を得てアメリカの大学に留学をしました。
― その後、アメリカの大学に留学して感じたことを教えてください。
留学して感じた日本との違いは、学生が政治の話をしていたことです。当時、米大統領の選挙が行われており、大統領のことをファーストネームで呼び捨てにしながら語り合っていました。今振り返ると、子供から大人になる過程として大人ぶっていたように思いますが、自分が住んでいる国の行く末や経済について語る彼らの姿は、とても印象的でした。
そして、とにかく勉強をしていました。寮では、全員が毎晩のように深夜2時頃まで机に向かっており、私自身も高校時代までとは打って変わって、よく学びました。さらに、学びの内容について語り合う時間も多く、単なる試験対策を超えた迫力を感じていました。アメリカの大学には、試験で点を取るための型にはまった教育ではなく、ディスカッションを重視し、人の話に耳を傾ける文化がありました。
また、日本の経済学の入門書と比べると、アメリカの教科書は非常にやさしい言葉で書かれており、内容がすっと頭に入ってきました。例えば、日本の教科書では「甲」「乙」といった抽象的な表現がよく使われますが、アメリカの教科書では「パン」や「ミルク」といった、イメージしやすい具体例が用いられています。教えている理論自体は同じですが、そこには、より本質的な部分に集中させる教育方針があると感じました。私は、こうしたアメリカの教育がとても好きでした。
ハーバード・ビジネス・スクール 留学時のルームメイトと
成果が出せず苦しんだ日々や多くの失敗を通じて、
自分の価値や覚悟を問い直した。
― ディー・エヌ・エーを創業される前は、外資系のコンサルタントにお勤めでした。社会人として、どのようなスタートを切られたのでしょうか?
社会人としての最初の2年間は、思うように成果が出せず苦しい時期でした。勤務先の外資系コンサルティング会社では、常に「自分の価値」を問われる環境で、良いアウトプットを出しても「これは本当に自分の考えか」と自問する日々が続きました。誰かに強制されたわけではありませんが、報酬を受け取る以上、結果を出したいという責任感がありました。
その思いから、朝9時に出社し、翌朝4時・5時まで働くという、まさに修行のような日々を過ごしました。電話対応はもちろん、机を拭いたりコピーを取ったりといった雑務も率先してこなしていましたが、仕事ができない自分にとっては当然のことだと感じていました。結果的に、周囲が帰宅した深夜1時以降が最も集中できる時間帯となり、そこが自分の「ピークタイム」でした。
― 挫折や失敗はありましたか?
数え切れないほどの出来事がありましたが、今でも鮮明に覚えているのは、ある重要なプレゼンテーションの前日のことです。完成した資料60人分の製本を任され、連日朝5時まで働いていた中、その夜も深夜まで黙々と作業を続け、ようやく終えて帰宅し、安堵の中で眠りにつきました。
翌朝、電話の音で目を覚ますと、既に時刻は9時半。プレゼンは始まっており、「あ、これはもうクビだ」と思いました。頭が真っ白になり、とっさに母へ「会社を辞めて地元の銀行に就職します。お父さんに伝えてください」と電話しましたが、すぐに「今はそんなことを言っている場合ではない」と思い直し、急いで会場へ向かいました。
会場の扉を開けた瞬間、クライアントの社長から自社の幹部までが一斉にこちらを見つめる冷ややかな視線を浴びたことは、今でも忘れられない経験です。
心が折れそうになったときもあった。
でも、「やらない」という選択肢はなかった。
― その後、ディー・エヌ・エーを創業し、経営の最前線に立ち続けてこられました。心が折れそうなとき、どう乗り越えてきたのでしょうか?
私は自分自身を打たれ強い方だと思っています。ですが、心が折れそうになったことはありました。そういうときは、「私ならできる」というよりも、「やるしかない」「やらないという選択肢がない」という気持ちで踏みとどまってきたのだと思います。
とても疲れてきつい状況で舵取りをしなければならないときでも、私には「やらない」という選択肢はありません。しかし、そうしたときの意思決定のクオリティが高かったかというと、必ずしもそうではなかったと思っています。
DeNA創業時
リーダーに必要なのは、プレッシャーの中でも正しく判断し、
勇気を持って実行し続ける力。
― グローバルリーダーに必要な能力・スキルは何だとお考えですか?
リーダーに必要なのは、思考力や判断力、分析力といった基礎的な能力を、激しいプレッシャーの中でも発揮できることです。平常時に正しい判断を下すことは誰にでも可能ですが、真に問われるのは極限の状況下で最適な意思決定ができるかどうかです。例えば、横浜DeNAベイスターズのピッチャーも、プレッシャーがなければ、ストレートをギリギリのコースに投げることは容易でしょう。しかし、試合の大事な場面でその一球を投げ切れるかどうかが、真の実力を示します。
また、A案とB案で迷い、最終的にA案を選んだなら、B案を潔く捨て、全力を注ぐ覚悟が必要です。中途半端な姿勢は組織全体に不安を生み、成功を遠ざけます。実行の過程では、想定外の情報や困難が次々に現れます。しかし、忙しく体力的にも厳しい状況下でも、高い思考力を維持し続けなければなりません。
結局のところ、リーダーに必要なのは、プレッシャーの中でも正しく判断し、勇気を持って実行し続ける力だと考えています。
異なる価値観に触れ、視野を広げる経験が大切。
その第一歩は、誰かと出会える場所に身を置くこと。
― 若者に対し、どのようなサポートが必要と考えますか?
まず、家や学校以外で人と交流できる場があることは、とても重要だと感じています。私自身、家庭が居心地の悪い場所で、常に息苦しさを感じていました。例えば、不登校の子供にとっては、学校がそうした居づらい場所になっているのではないかと思います。だからこそ、家でも学校でもない場があることは、本人にとって大きな支えになるはずです。そこでは、同じような境遇を経験した人と話すことができたり、情報を得られたりすることで、「ここだけが世界ではない」「抜け出す方法もある」と思えるようになるのではないでしょうか。子供の頃というのは、見えていない世界の存在を想像するのが難しいものです。だからこそ、そうした場所の存在には大きな意味があると考えています。
また、これは国の役割になると思いますが、希望する人が誰でも留学に行けるような公費の支援があるとよいと思います。現在、スタートアップ企業を見ていても、視野が国内にとどまり、国境の先に広がっていないと感じることがあります。国内での成功やビジネス構築に意識が向いている方が多い印象です。そうした視野を一歩外に広げるためには、やはり海外での経験が非常に有効だと思います。
留学については、短期よりも長期の方が望ましいと考えています。若いうちに海外での生活を経験し、異なる価値観に触れることで、視野が広がり、世界で通用する人材が育っていくはずです。東京は子育てがしやすい自治体だと感じていますので、ぜひ留学支援も含めた取組を進めていただきたいと思います。
接点が生まれた瞬間、世界は遠い場所ではなくなる。
人とのつながりが世界を「自分ごと」に変える。
― 若者が積極的に世界と関わる姿勢を育むにはどうすればよいとお考えですか?
重要なのは「インタラクション」、つまり実際に人と接点を持つことだと思います。情報をただ消費するのではなく、自分自身に関わるものとして捉えられることが大切です。例えば、エンジニアの世界では言語の壁を越えて、オープンソースコミュニティで互いに支え合う文化があります。そうしたつながりを持つことで、「国境とは案外意味のないものかもしれない」と感じることもあります。
また、世界で紛争が起きたとき、そこに友人の顔が思い浮かぶかどうかで、その出来事の受け止め方は大きく変わります。人との接点があることで、遠い世界の出来事が自分ごととして感じられるようになるのです。
自分が夢中になれることに真正面から向き合い、
「深める」経験をしてほしい。
― 若者へのメッセージをお願いします。
「これだけはやるべき」という正解はなく、自分が好きなことや関心のあることを深掘りしてほしいと思います。私自身、やりたいことを自由にできない環境で育ったからこそ、誰よりも「深める」経験の大切さを伝えたいのです。
一つのことを徹底的に深めた人は、テーマが変わっても本質に向き合う姿勢や、深みに対する謙虚さを備えています。頭の回転が速く、表面的に仕事をこなすだけでは、大きなことを成し遂げるリーダーにはなれません。もちろん、処理能力の高い人にも価値はありますが、日本にはもっと、勇気を持って挑戦するリーダーが必要だと感じています。
その違いを生むのは、「何かを深めた経験があるかどうか」です。だからこそ、自分が夢中になれることに真正面から向き合い、「深める」経験をしてほしいと願っています。