大谷美紀子さんが伝える世界とのつながり ―「人の役に立ちたい」という思いで学び続けた【インタビュー】
本ページに掲載している内容は、2026年3月27日時点の情報です。
東京都は、令和7年度、新たな価値や課題解決を創造し、日本や世界の成長・発展を牽引していく人材を輩出することを目的に、第一線で活躍するグローバルリーダーへのインタビューを中心とした調査を実施しました。 本記事では、調査報告書の中から大谷美紀子さんへのインタビュー内容をご紹介します。
※クリックすると動画をご覧いただけます。
大谷&パートナーズ法律事務所 弁護士 大谷 美紀子
国際家事事件を専門とする弁護士として、国際人権問題に尽力。日弁連やNGOでの活動を通じ、人権教育の分野でも積極的に活動。2017年、国連の専門機関「子どもの権利委員会」委員に日本人として初めて就任。2021年から2023年には同委員会委員長を務めた。
上智大学法学部国際関係法学科入学
大谷法律事務所 設立
国際連合「子どもの権利委員会」委員(~25年)
子供たちへの人権教育を通じて、
すべての人の人権が尊重される社会を実現する。
― これまでさまざまな活動をされてきた中で、特に子供の人権教育に注力されるようになったきっかけについて教えてください。
弁護士として実際に仕事を始めてみると、社会の中に差別が根強く残っていることを感じ、人権問題や人権教育に強い関心を持つようになりました。
その後、「子どもの権利条約」や国連によるこれまでの取組について調べる中で、「すべての人が人間として同じ価値を持つ大事な存在である」という考え方を、子供の頃から根付かせていくことが、人権が尊重される社会を築く上で非常に重要だという思いに至りました。
子供に何かを伝える際には、単なる知識ではなく、大人の振る舞いを通じて教えることが大事です。子供は常に大人の姿を見て学んでいるので、関わるすべての大人が人権を尊重する態度を示すことが求められます。そうした意味でも、子供に人権を教えることは、子供自身がその意識を持って成長していくことにつながるだけでなく、子供に関わる大人、そして、社会全体を変革していく力があると考えています。
厳格だが自由な挑戦を認めてくれた父。
母の原体験や期待が現在の活動に影響。
― ご両親はどのような方でしたか?
父は非常に厳格な人で、食事の作法や日常の態度に対しても厳しいところがありました。その一方で優しい面もあり、「女の子だから」と何かを制限することもなく、私が本当にやりたいと言ったことには、きちんと耳を傾け、やらせてくれました。負けん気の強い性格で、その気質は私にも受け継がれていると感じています。
母は山奥の田舎の出身で、早くに父親を亡くし、中学を卒業すると高校には進学せず、岐阜県の工場に集団就職しました。20歳で父と結婚しましたが、家柄の違いなどから父の家族に反対され、苦労したようです。その後、フランス刺繍の先生として生徒を持つようになりましたが、フランス刺繍の展示会の開催など、華やかな付き合いの中で周囲に合わせることにも苦労があったのではないかと思います。
母の世代の日本において、貧しさや、高校に進学できず、さまざまな困難を経験しなければならなかったことは、私の心を強く揺さぶりました。母がしばしば口にしていた悔しさは、私が子供の権利の問題に関わるようになった背景の一つとして、大きな影響を与えていると思います。
また、母からは、祖父が村で尊敬されていた正義感の強い人物だったという話を繰り返し聞かされました。母が私にもそのような人になってほしいと期待していると感じたことも、現在の活動につながっていると思います。
― 他にご自身の意識形成に影響を与えたものはありますか?
小学校に入学する前から、ずっと本を読んでいました。両親も私が本好きだと理解してくれていて、文学全集や百科事典などを買い与えてくれました。文字が好きで、片っ端から読んでいるうちに物足りなくなり、父の本棚からも本を引っ張り出して読むようになりました。
父の本棚には、人間の不条理や社会派的なテーマを扱った本も多くありました。どの本が特に影響を与えたかを特定することはできませんが、そうした読書の積み重ねが、私の意識形成に確かな影響を与えたと思います。
大人や学校への不信を抱えながらも、
「人の役に立ちたい」という思いが、学び続ける力になった。
― どのような子供でしたか?
私はかなり神経質で、人見知りが強く、本当に引っ込み思案な子供でした。人と話すことが苦手で、自分から友達をつくりに行くようなタイプではありませんでした。それでも、小学校の先生はよく私に「あれを手伝って」「これをお願い」と声をかけてくださり、誰かのために動けることが嬉しいと感じるようになりました。本の影響もあり、小学生の頃には既に、「人の役に立ちたい」という気持ちが自分の中に芽生えていたことを覚えています。
中学2年生の春休みに、学校の先生との間でトラブルがありました。学校の対応は期待していたものではなく、学校や大人に対する不信感を抱えたまま中学校を卒業することになりました。高校生になってからも、肺炎による長期欠席の際に担任から「五月病だ」というような目で見られて、大人への不信感が増しました。当時10代の女の子が受けた精神的なショックの重さは、誰にも理解してもらえなかったように思います。
家庭では母の病気などの問題を抱え、学校も好きになれない状況の中で、「私は将来必ず人の役に立ち、人のためになる仕事をするんだ」という思いが、私の心の支えでした。学校も先生も嫌いだったけれど、「勉強だけは負けない」という気持ちで一生懸命に勉強しました。社会で誰かの役に立つ仕事をしたいという強い思いはありながらも、具体的にどのような仕事を選べばよいかは分からない。そのため、「分からないから、せめて勉強だけはしておこう。そうすれば、やりたいことが見つかったときにきっと実現できる」と信じて努力を続けていました。
そして、高校2年生の頃に、姉の友人から国連という組織があると教わりました。その瞬間、「これだ」と直感的に思い、国連で働くことを進路として定めました。その後、担任の先生に「将来、国連で働きたいので、上智大学に進学したい」と相談しました。私が通っていた高校では珍しい進学先でしたが、先生は受験のために、いろいろ調べてくださり、心から応援してくださいました。その姿勢には、本当に感激し、助けられました。
社会に貢献する道を模索した大学時代。
自分自身の基盤を持ち、人に影響を与えられる存在へ。
― なぜ弁護士を志すようになったのですか?
国連職員になることを目指して大学に進学しましたが、講義の中で教授が語った「戦争はなくならない」といった言葉や、アメリカのユネスコ脱退のニュースに触れ、国連を通じて平和な世界を実現したいと考えていた私は、大きな衝撃を受けました。当時は私もまだ青臭い学生で、理想を抱いていた分、現実とのギャップに深く落胆したことを覚えています。
同じ頃、国連職員として採用されるまでの道のりが複雑であることを知りました。仮に国連に就職できたとしても、本当に社会の役に立てるのか分からなくなっていたこともあり、国連を目指すことを断念するに至りました。
目標を見失い、何をすべきか分からなくなってしまいましたが、「今できることをしよう」と思い、障がいのある子供の施設や老人ホームでボランティア活動をしていました。そんな折、友人から「父が債務の保証人となり多額の借金を抱え、一家で引っ越さざるを得なくなった」という連絡を受けました。私は大学で法律を学んでいたこともあり、弁護士への相談を勧めましたが、聞き入れてもらえませんでした。
そのとき私は、人の役に立つためには、最終的には自分自身に人に影響を与えられる力がなくてはならないと強く感じたのです。どんな職業に就くかよりも、自分自身の人格的な基盤や専門分野をしっかり持つことが必要だと考えるようになりました。法学部に所属していたこと、そして社会のあらゆる場面に法律が関わっていることから、「法律なら決して無駄にはならない」と信じて、法律の実務家になることを決意しました。
― 将来を描けないとき、なぜ「できることをしよう」と思ったのですか?
周囲の人たちの影響が大きいです。大学時代、私の周りには行動的で勉強熱心な人が多く、学生のうちから海外でNGO活動やボランティアに取り組んでいる仲間もいました。私は留学経験もなく、そこまでの勇気はありませんでしたが、そうした姿に強く触発され、「身近なことでもいいから、自分にできることをやらなくては」と思うようになりました。
「世界に貢献したい」という思いが、
人生の転機を留学へと導いた。
― なぜ社会人になってから海外留学されたのですか?
もともと「いつか必ず留学したい」という思いを抱いていました。国連職員になるという夢は一度手放しましたが、「世界のために役立ちたい」という気持ちは消えることなく残り続けていました。弁護士として国内を中心に働く中でも、将来的には国際的なフィールドで活動したいという思いがあり、そのためには留学が必要だと感じていました。
とはいえ、何を学ぶかが明確でないまま留学することには抵抗があり、「いつかは」という気持ちだけを持ち続けていたのです。そんな中、弁護士として働き始めてすぐに人権問題に関心を持つようになり、仕事と子育てを両立する中で、女性差別を実感する場面にも直面しました。職場でも家庭でも不平等を感じる中、私にとってサバティカル休暇のような時間として、「人権教育を学ぶために今こそ留学しよう」と決意しました。
当時、日本には人権教育や国際人権法、国連の人権活動を専門的に学べる大学院がなかったため、海外の大学院を目指すことにしました。アグネス・チャンさんが子連れで大学院に通い学位を取得したという話にも大きな勇気をもらいました。
留学先のアメリカの大学院に入学したのは32歳の時です。結婚し子供がいる中での留学でしたが、特別視されることはなく、自然に受け入れられました。学生の中には60代の方もおり、図書館も夜遅くまで開いているなど、子育てしながらでも勉強できる環境がありました。
授業では学生が積極的に発言し、自ら声を上げないと置いていかれるような環境でした。こうした姿勢が求められる学びの場は、日本人にとっては厳しく感じられるかもしれませんが、私にとっては大きな刺激となりました。
コロンビア大学大学院留学中、二人の子供と
困難は想定済み。
問いの答えが「やりたい」なら、進むしかない。
― 今後の展望をお聞かせください。
ある頃から、私は「自分は本当に恵まれている」と感じるようになりました。勉強をすれば理解できること、そして日本で生まれ、普通に学校に通い、安全に暮らせる環境にあること。それだけでも恵まれていると思うのです。
アメリカに留学した際、「夜でも安心して歩けるのに、日本に人権問題なんてあるの?」と問われたことがありました。また、弁護士になってから参加したスタディツアーで、フィリピンの家庭にホームステイした際には、お風呂やシャワーが無く、水道水で体を洗うなど、途上国の現実に触れ、改めて自分の環境のありがたさを実感しました。
子供の頃から、「人生を一生懸命、何か人のために役立つことに使ったと思いたい」という気持ちが、ずっと私の中にあります。自分が恵まれている分、それを世界に役立てなければいけないと思っています。
今後の展望としては、健康を保ちながら、少なくとも10年はできる限り世界のために役に立つ活動を続けていきたいと考えています。
― 困難に直面したり、苦しいときはどのように乗り越えてきましたか?
うまくいかず、気持ちが沈みそうになるとき、私はいつも自分に言い聞かせる言葉があります。
一つは、「もとより存知のこと」という言葉です。これは「困難が起きることは最初から分かっていたことだ」という意味で、「物事は必ずしも順調に進むわけではない」という前提に立つ考え方です。失敗や苦しみ、努力しても結果が出ないことは、ある意味当然のこととして受け止めるようにしています。
もう一つは、「本当に私はそれをやりたいのか?」と自分に問いかけることです。そして、「やりたいなら、やるしかない」と自分に言い聞かせて、前へ進むようにしています。
世界とつながる意識を持ち、自分の場所で行動する人こそ、
真のグローバル人材である。
― グローバルリーダーに必要な能力・スキルは何だとお考えですか?
グローバルに活躍するために必要な能力やスキルは数多くありますが、それらは努力や向上心によって身に付け、変えていけるものだと考えています。「グローバルに活躍すること」と「優秀かどうか」は必ずしも関係ありません。
その上で、特に重要だと感じるのは、「多様な価値観を受け入れる力」と「型に捉われずに考える柔軟性」です。日本社会は同調圧力が強く、枠の中で生きる傾向がありますが、国際的な場では、異なる文化や考え方に触れながら、自ら変化していく姿勢が求められます。
素直に人の助言を受け入れ、それを実現するために努力できることーそれこそが、グローバルリーダーにとって最も大切な能力だと思います。
― グローバルで活躍するとはどのようなことだとお考えですか?
高校生や大学生の中に、世界に飛び出して英語で話し、活躍したいという思いを持つ人がいれば、私は心から応援したいですし、そうした若者がもっと増えてほしいと願っています。ただし、全員がその道を目指すべきだとは思っていません。英語が得意でなくても、海外で活躍したいと思えなくても、自分を卑下する必要はありません。
一見グローバルとは無縁に見える仕事や生活の中にも、私たちが着る服、食べるもの、日々の暮らしの多くが世界とつながっています。大切なのは、そのつながりを意識できるかどうかです。一人ひとりが自分の持ち場で、世界の一部としての自覚を持ち、グローバルに重視される価値観に向かって少しでも行動しようとするーその姿勢こそが、真のグローバル性だと感じています。
グローバルとは、必ずしも海外に出ることを意味するものではありません。日本にいても、世界との関係性を意識しながら行動する人を、私は立派なグローバル人材だと考えています。
やりたいことが見つけられなくても焦る必要はない。
目の前の学びに真剣に向き合い、積み重ねることが大切。
― やりたいことが見つからないときはどうすればよいとお考えですか?
日本では、早い段階から「やりたいこと」を見つけることが強く求められすぎていると感じています。私がアメリカに留学した際に印象的だったのは、出会った人々が皆、やりたいことを見つけるまでさまざまな仕事を経験しながら、良い意味で焦っていなかったことです。30代前半で見つかれば幸運、というくらいの感覚でした。
日本の教育を振り返ると、高校の時点で文系か理系かを選択させられ、その延長で将来の職業像まで描かされます。しかし、10代で自分の適性や職業の実像を理解するのは難しく、そこで選択を迫るのはやはり早すぎると思います。加えて、「会社に入ったら一生そこで働く」というような一本道のキャリア観が根強く残っていることも、若者の選択肢を狭めているように感じます。
だからこそ、若い人たちには「今はやりたいことがなくても構わない」と伝えたいです。ただし、勉強にはしっかり取り組んでほしい。今学んでいることと将来のやりたいことが一直線でつながっているとは限りません。むしろ、学んだ分野がそのまま将来に直結することは稀です。やりたいことが見つかったときに、それを学べば良いのです。
大切なのは、目の前の学びに真剣に向き合うことです。その過程で、分野ごとの考え方や物の見方、基礎的な知識が確実に身に付きます。そうした「学ぶ力」が備わっていれば、将来やりたいことが見つかったときに、必ず役立ちます。大学生には、「今いる学部にとらわれず、まずはその分野を徹底的に学ぶこと。そして、4年間で多くのものを見て、多くの人に出会い、さまざまな話を聞いてほしい」と伝えています。その経験の積み重ねが、きっと自分の可能性を広げてくれるはずです。
子供たちの「やりたい」を信じて支えるのが大人の役割。
子供たちには、刺激ある体験を重ねてほしい。
― 若者に対し、どのようなサポートが必要と考えますか?
いろいろな芽を開かせてあげることが大切です。子供たちにはできるだけ多くのものに触れ、さまざまな体験をしてほしいと思います。また、刺激になるような話を早いうちに聞く機会をどれだけつくってあげられるかも重要です。
なぜなら、今はインターネットで何でも見られる時代ですが、それでも中学生や高校生といった多感な時期に受ける刺激は、やはりストレートに心に響くからです。それは本当に大きな意味を持つことだと思います。
そうした機会を子供たちに届けるためにも、しっかりとアウトリーチしていく必要があります。そして、何かを「やりたい」と言った子供がいたとき、大人がその可能性を実現するために手を差し伸べられることが重要です。
― 若者へのメッセージをお願いします。
私は、誰もが優れた能力を持っていると考えています。ただし、それをまだ発揮していないだけであり、使う機会が訪れていないだけなのです。私自身、もともとは引っ込み思案で、人前で話すことなど想像もできませんでした。しかし、どうしてもやりたいことがあり、そのためには克服するしかないと覚悟を決め、努力を重ねた結果、少しずつできるようになりました。
だからこそ私は、「何かをやりたい」という気持ちさえあれば、必ず実現できると信じています。それが世界を舞台にした活躍であっても、そうでなくても構いません。もし今、「やりたいことが分からない」と感じている人がいても、焦る必要はありません。健康で働き、収入を得て、家族と生活するーそれだけでも十分に素晴らしい人生だと思います。誰もが特別な夢を持ち、特別な人にならなければならないわけではありません。
ただし、「これをやりたい」と思えるものが見つかったなら、その時は全力で取り組んでください。必要なことは、周りの大人に教えてもらえばいいのです。周囲の人の力を借り、アドバイスを素直に受け入れながら努力を続けることで、やりたいことはきっと実現できます。私はその力を誰もが持っていると信じています。